縁の下の力持ち?!代田橋は江戸・東京の「水道を支える街」だった!

こんにちは、若林浩太郎です。

先日、地中海の家々についての記事を書く際に、ギリシャについて調べていたのですが、そのとき小学校の授業で読んだ「走れメロス」のことを思い出しました。

「走れメロス」はメロスとセルヌンティウスの友情を題材にした太宰治の作品の1つですよね。
小説をあまり読まない私でもこの話を知っているのですから、太宰治は近代史上でも指折りの作家であることは間違いないでしょう。

その太宰治は「斜陽」「人間失格」などの代表作を遺したのちに、愛人と玉川上水に入水して自殺してしまいましたが・・・

玉川上水といえば、近代水道整備以前の東京の上水道を担った重要設備です。上流部は今でも東京都水道局の水道設備として活用されています。

その流路は取水所のある羽村から四谷までの約40kmで、途中さまざまな街を経由しています。

その中でも本日ご紹介するのは、東京都世田谷区の最北端の駅である代田橋駅周辺です。

都心に近く、様々なお店が立ち並んで住みやすい街、代田橋。

そこは江戸から東京に変わり、時が経った現代でも重要な役割を果たす、歴史ある土地でもあるのです!

江戸の上水道 玉川上水

玉川上水は江戸時代初期に開通した水路です。

当時の江戸は参勤交代の開始など様々な要因で人口増加が進行し、それに伴いさまざまな社会問題が発生しました。

その中の1つが上水、つまり飲料水の不足です。

そこで水不足に悩まされた江戸に、多摩川から水路をひいて導水しようという計画が立てられ、それからわずか8か月で開通することになったのが玉川上水です。

玉川上水は江戸の水不足を解消し、同じく水不足に悩まされていた武蔵野台地上の開発に大きな役割を果たすことになります。

江戸にとって生命線とも言える玉川上水、そこを流れる水の水質を保つことは江戸の住民の命を守ることと同義です。

そのため、多摩川からの取水口である羽村、江戸に配水する新宿大木戸、そして代田橋水番所と呼ばれる施設が設けられることになります。

代田橋は大都市となった江戸の上水道を守る役目を与えられていたのです。

現在の玉川上水の様子

現在、玉川上水は上流を除いてその役目を終え、都心近くはほとんど暗渠化されました。

しかし、代田橋駅から笹塚駅にかけては玉川上水下流部で暗渠化されていない数少ない場所(開渠)となっています。


(代田橋近くに残る玉川上水の開渠)

周辺の地図を見ると、もともと玉川上水の流路だった場所が透けて見えるような痕跡が残されていることがわかります。

下の地図において、赤い丸で示した部分に開渠が残っています。

この開渠と周辺の道路とを見比べてみれば流路が見えてきます。

いかがでしょうか?

下の地図で示したような線が見えてきませんか?

現在、玉川上水の暗渠化された部分は道路になったり、公園として整備されたりしています。

代田橋駅近くにも玉川上水跡地に整備された公園がありました。
川の流路が透けて見える細長い敷地です。

代田橋駅から見える謎の建物

代田橋駅を降りると、スタジアムのような形状の建築物が目につきました。

明らかに周囲の風景から浮いて見えるこの建物は何者でしょうか?

外周を歩いてみたところ、その正体が判明しました。

東京都水道局が管理する和田堀給水所です。

和田堀給水所は、江戸時代が終わり東京に近代的な水道を整備する際に、玉川上水から新宿にあった淀橋浄水場へ送水するために作られました。

現在も現役で稼働している施設で、郊外の浄水場から送られてくる上水を世田谷区・目黒区・渋谷区・港区に分配する役割を持つ重要な施設です。

東京の上水道の要衝 代田橋

江戸時代:玉川上水をきれいに保つために水番所が置かれる

近代水道初期:淀橋浄水場への送水のため和田堀配水場が建設される

現代:浄水場から送られてきた上水を各地に分水する

江戸時代から長きにわたって東京の水道を支えてきた代田橋はこれからも東京の水道を支えていくことでしょう。

この記事を書いた人
賃貸知識BANK編集部
不動産市場や投資に関する情報を専門的な視点で解説しています。資産形成や投資戦略に役立つコンテンツを実務的な目線でお届けします。
「暮らす」カテゴリの最新記事